Disneylandの誕生日が1955年で今年は60周年(Diamond Anniversary)になる。
1955年はエルビス プレスリーやパット ブーンのヒットソングがいたるところで流れ、トランシスターラジオも
フラフープも売れに売れたときだ。ガソリンはなんと1ガロンが23セントでテレビはあったが勿論白黒だった。
アニメ制作会社をすでにやっていたWalt Disneyが
現在のバーバンク市のDisneyStudioの空き地にDisneylandという遊園地を作ろうとして市議会に申請したら許可が下りなかった。
たくさんの人が来るのでバーバンクの街の交通渋滞や環境が悪くなるということだった。それほど広い敷地だったそうだ。
そこで自社映画スタジオの空き地という制限を考えずに思い切って誰もビックリする広大な遊園地にしようと決め、
数カ所の南カリフォルニアの候補地を探した結果現在のAnaheim市の場所を買い取った。
当時は住宅はなく見渡す限りのオレンジの畑だった。
厖大なお金がかかる大型遊園地の金策は大変だったけど全米をカバーするテレビ局ABC放送(現在はDisneyの子会社)
が子供向けに遊園地の中の取材を独占で放映する条件で$5Mをだし全部で当初の$9Mの資金調達の半分を助けてくれた。
しかし後日見積もりは大幅に上がり最終的に$17Mでやっと完成した。普通の住宅が5,000ドルで買える時代だった時の
1千7百万ドルだ。
開園の7月17日は色々な手違いがあり大変だった。全米の報道機関はこのとてつもなく大きな遊園地は
時間の問題で閉鎖するだろうと見ていた。コンピューターのない時代で
誰が見ても運営の難しさがわかるマンモス遊園地だったからだ。
しかし誰もこないからダメというのでなく実はあまりにも入場者が多く、対応の面でどうしようもなかったせいだ。
予定の5千枚の入場券を売りさばいたGrand Opening (7月17日)に28、154人も押し寄せたが
5千人以外は皆偽造された入場券でタダで入ったのだ。
食べ物の販売店では売る食べ物がなくなり、トイレの前には長蛇の列でたいへんなGrand Openingだった。
この日に入場者に挨拶するハリウッドの俳優の一人Ronald Reagan (後にカリフォルニア州知事そして大統領になった)も
あまりの人混みでまともに入れず フロンティアランドの壁を這い上って園内にやっと入ったエピソードがある。
これらの状況はABC放送のテレビ中継された。何しろ前代未聞の大遊園地のOpeningだったからだ。
誰もが長くは持たないと見ていたDisneylandは
現在では中国の上海、香港、東京、フランスのパリ郊外そしてフロリダと
まさに今までの遊園地の概念を超えた大ヒット事業になった。
下記サイトが日本語版のロサンゼルス ディズニーランド60周年記念サイトです。
Mike Yamamoto