映画の都ハリウッド!
ここにその昔(1957年)Toyotaが車の販売会社を戦後日本の会社で最初の現地法人を設立した。
日本では岸内閣が誕生、日劇のウエスターンカーニバルのロカビリーが大ブーム、裕ちゃんの嵐を呼ぶ男が大ヒット
そして浜村美智子のバナナボートが人気の流行歌だった昭和32年だ。
Toyota USAの米国進出は失敗続きで3年ぐらい営業していたHollywoodから
心機一転、全くの田舎の郊外であるトーランスに移転した。
その後Toyotaのあとを追って日本の会社は次々とこの地トーランスに現地法人を設立した。
なぜここに?それは日系人がここに集中していたからだ。戦前からこの地域は
米国市民でない人にも家や土地をリースできるところだった。戦前には移民は絶対に市民になれず
他の地域では土地も借りれず農業もできない有様だった。ところがここは出来るので移民が集まったのだ。
当時は日本の会社に働こうとする白人は皆無でどうしても日系人に頼らないとという事情があった。
二世のBruse Kaji は公認会計士の資格を持っていたが仕事がなかった。
彼によると日系人は収容所から出るときは行く先のバスの切符きり米国政府から支給されず放免され、
本当に全くの丸裸で戦後の生活を始めざる終えず金銭的には困窮を極めた時代だったという。
だから日本からToyotaが自動車を米国で販売するというので就職を希望したという。ほんとうに日系人にとってToyotaが
日系人を雇ってくれたのはありがたかったそうだ。日本の製品は安物の食器や人形が当時は主で、安かろう悪かろうが常識の時代だ。
そこに高度の技術を要する自動車という商品を売るというのだ!アメリカ人があまり信用しないのはよく理解できる時代だった。
そのToyotaは1957年にトヨペット、クラウン4dr.とランドクルーザー販売でスタートしたが
最初の1年はクラウンを288台そしてわずか1台のランドクルーザーを売って終わった。
クラウンのエンジンが小さすぎて踏み込んでも速度があがらず、エンジンが爆発するのではないかというほど大きな音を
立ててのろのろ走ったそうだ。これが敗戦後の Made In Japan の現実だった。
そんなことで1961年にはトヨペットクラウンの販売を停止、ランドクルーザーだけ細々と販売していたが1962年頃に
新しい出直しをトーランスでして米国市場を色々研究し改良を重ねて、これだという車の販売をスタート。
これがToyota Coronaというモデルである。
米国に進出して毎年500台以下のToyopetとランドクルーザーの販売台数からこのCoronaは一気に年間2万台の販売で皆驚いた。
そしてランドクルーザーの販売はやめてCorona が唯一の商品モデルになった。
ToyotaUSA 伝説の始まりである!